三貫清水自然塾活動リポート・・・野鳥観察

2009年2月22日(日)9:45〜11;20

場所・・・見沼自然公園(さいたま市緑区上野田)

 

 


 

1 はじめに

今年度の野鳥観察は、例年になくフイールド内の鴨川に野鳥の個体数が非常に少ないということで、下見を実施して今回の運びとなった。ここは、われわれのホームグラウンドの奈良町からおよそ南東11キロに位置する自然公園である。


当日は快晴。公園内は、広い芝生にレジャーシートを敷いてくつろぐ家族連れ。池の周りのランニングコースで汗を流すスポーツマン。大きな池の周りのベンチに腰掛けて鴨に餌をやっている男の人。50〜60羽ほどの鴨が餌を啄ばんでいるが、ほとんどがオナガガモであった。コガモの方が多いのが普通だが・・・。そのあと、池の周りを観察して回ったが、結果的にコガモは1羽だけであった。オナガガモの餌はパンの耳を食べやすいように小さく切ったものだったが、その食べ方が面白かった。パンの耳はパサパサして食べにくい。くわえたまま水辺までいって器用に水を含ませてから飲み込んでいる。皆同じようにやっているので笑ってしまった。また、芝生にツグミが多いのには驚いた。

 今までの「野鳥観察」は、指導者を招いて実施していたが、今回は会員の中に詳しい人がいるのであえて依頼しなかった。表の中のNO27の「アトリ」は誰も分からなかったので、われわれの前で観察している詳しい方に教えていただいた。


学習研究社発刊「日本の野鳥」から

 

見沼自然公園の入り口に「野田の通船堀跡の案内板があったので、その説明文を参考までに載せておきます。

 この水路は、江戸との往復の船を通した私設の運河跡です。享保13年(1728年)、見沼溜井は干拓されて新田となり在来の溜井に変わる用水として見沼代用水が開かれました。この公園の北東に接し流れているのが、見沼代用水の東縁用水路です。同16年代用水路縁辺の村々と江戸とを結ぶ内陸水運が幕府によって開かれました。これを見沼通船といい、年貢米、薪炭、野菜、柿渋、酒などが江戸に運ばれて来ました。

 見沼通船には、各所に河岸(荷積み場)が置かれ、拠点に通船会所が設けられました。この公園に隣接する中久喜家宅は、染谷河岸と呼ばれており、河岸があったとともに通船会所がありました。中久喜家の祖は、井澤弥惣兵衛為永に従って見沼の新田開発に就事したということです。一方、同家では居宅庭先まで通船堀を私的に設け芝川(見沼中悪水路)、加田屋川を経る通船を開き、代用水路側との両方の船荷を効率的に扱いました。浦和市では公園造成にあたり、この通船遺路をそのまま残し、近世の産業交通の歴史を学ぶ場としました。

平成6年4月    浦和市

 

 

見沼代用水の開削者井澤弥惣兵衛為永翁像が池の手前の芝生に堂々と建っている。碑文には次のような文が刻まれている。

 

井澤弥惣兵衛為永の功績

井澤弥惣兵衛為永は承応3年に現在の和歌山県海南市に生まれ、若い頃から紀州藩の土木技術者として亀池の築造をはじめ、数多くの土木事業を行いました。

享保7年8代将軍吉宗に江戸に召し出された為永は享保12年に得意な紀州流の土木技術を駆使して見沼を干拓し、見沼に代わる水源を利根川に求め、長さ60キロ余りの見沼代用水を半年余りで完成させ、1200町歩の新田を開発しました。これが現在の見沼田んぼです。そのほか用水沿岸のため池も新田開発され、灌漑面積は1万4千町歩を超えました。

さらに、日本最古の閘門式運河の見沼通船堀を造り、江戸と見沼代用水を結ぶ船運を発展させこれらの功績により享保16年に幕府の勘定吟味役となりました。

この偉大な功績を後世に伝えるため、井澤翁の生誕350年を記念して賛同を頂いた皆様と見沼代用水土地改良地区でここに銅像を建立するものです。

平成17年10月吉日

銅像建立委員会


 

4 「見沼代用水路の開祖ということで、銅像の脇に説明版がある。

 井澤弥惣兵衛為永は、紀州溝ノ口村(現和歌山県海南市)に生まれ、その年を明確に表すものはありませんが。徳川幕府が寛政年間にまとめた系譜集によると、承久3年(1654年)になっています。

 為永は幼少の頃より学問、特に算術に秀でており若くして紀州藩に仕え、水利事業にその才能を発揮し、紀ノ川水系に造成された亀池は代表的な施設として現在もその姿を保っています。

享保元年、徳川吉宗が8代将軍なった頃の幕府は財政状況が大変苦しく、財政改革に乗り出した吉宗は紀州徳川藩主当時、治水事業に能力を発揮していた為永を享保7年江戸に召し出し紀州流といわれる土木技術により多くの新田開発をし、財政改革に大きく貢献しました。

為永は、享保10年新田開発のため見沼を視察し、干拓後の水源を見沼に代わって利根川より水を引くこととし、享保12年(1727年)より工事を開始し、元荒川の底を通す伏せ越し、綾瀬川の上を通す掛け渡井等を構築し、翌年の春に完成させ総延長約60キロに及ぶ見沼代用水路をわずか半年にて完成させました。これにより、見沼溜井約1200ヘクタールの新田開発と八丁堤下流の水源を確保することになりました。また、見沼代用水の開削に合わせ小林沼(菖蒲町)等の数多くの沼地を開墾し、黒沼、笠原沼用水、天久保用水、高沼用水を始めとする多くの用水路を手掛けています。そして閘門式運河としての通船施設を開発し、芝川と東縁、西縁用水路を結ぶ通船堀を享保16年(1731年)完成させています。これは当時のわが国の技術のレベルの上でも、世界の通運史上からみて特筆されるものであり、現在通船堀跡は国指定史跡となっています。

為永は晩年、美濃郡代を兼ね元文3年(1738年)3月にその生涯を閉じたとされています。

なお、「見沼代用水路」の名称については、見沼に代わる水源としての用水路との理由から命名されたものです。

以上

 

野鳥観察の結果 


 

6 終わりに

 今回の野鳥観察は鳥の種類としてはまずまずであった。参加した会員の感想で多かったのは、今回特によかったのは、自然公園ということで、大きな野鳥の池、それに休耕田やトンボの繁殖のための自然観察池、中の島まで設けられていて、多彩な視点から自然観察ができることである。野鳥観察もさることながら、野草を中心にした植物、そして樹木の観察もけっこうできた。河津桜が咲き始め、サンシュユの黄金の小さい花、ヒメオドリコソウの群落にも出会うことができた。広いエリアでの活動は伸び伸びしたものだった。ここは、春、夏、秋と四季折々に訪れて見る価値があるというのが結論である。

 なお、園内にはマンサクが数本植えられている。ここのはふだん見るのより花弁が少し短い。赤花マンサクが1本だけあるのを見つけた(マンサクとサンシュユについては2月28日の「若本さんのページ」を見ていただきたいと思います。写真入りで詳しい解説が載っています)。